備忘録とときどきつぶやき@シンガポール

2018年から夫の赴任に伴いシンガポールで生活しています。日々感じたことや体験したことを綴っています。

シンガポールの歴史を学ぶ@シンガポール国立博物館

シンガポールは8月9日のナショナルデー(独立記念日)に向けて、お祝いムードが漂っています。

シンガポールに住んでいる今、独立記念日を前に改めてシンガポールが辿っていった歴史を学ぶために、シンガポール国立博物館に行きました。

 

 

シンガポール国立博物館

シンガポール国立博物館はシティ・ホールにあります。

今回はMRTのCity Hall駅から歩いて行きました。

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とても立派です。

国立博物館は旧館と新館から成ります。

旧館はラッフルズホテルと同じネオパラリアン様式の豪華な造りです。

旧館は中に入ると、天井のステンドグラスが印象的です。

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スタンドグラスの数は50枚あります。

これはビクトリア女王在位50周年を記念して50枚はめ込まれたと言われています。

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旧館側

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新館側

シンガポールの歴史

 

テマセク時代

シンガポールの土地には、人々が数千年前から住んでいたと言われていますが、1番古い資料は14世紀のものになり、当時この土地は「テマセク」と呼ばれていました。

住人は主に漁協で生計を立てていましたが、地理的条件により、様々な国の船舶の寄港となり栄えたとされます。

 

シンガプーラ時代

テマセクと呼ばれていたこの土地がシンガプーラと呼ばれるようになったのは、諸説ありますが、ビンタン島から上陸したサンニラウタマ王子が見たものに由来すると言われています。

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何に見えますか?

王子が見たものを尋ねると、ライオンだったそうです。

それからライオンを意味する「シンガ」と、町を意味する「プーラ」を繋げて、この土地をシンガプーラと呼ぶようになりました。

フォートカニングの丘は高貴な方しか立ち入れない、forbidden hillと呼ばれ、お宝が発掘されています。

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フォートカニングから発掘されたお宝(写真)

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当時の市民の暮らし

それから五代続いた王朝も滅び、数百年の間、外に知られることはなくなりました。

 

ヨーロッパによる侵略と植民地支配

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イギリス~インド~中国の三角間貿易の途中拠点として、1819年にイギリス人のスタンフォード・ラッフルズがシンガポールに目を付けました。

ラッフルズは東インド会社に就職後、ペナンに駐在。シンガポールと自由貿易協定を当時のスルタンと結びました。

この当時にシンガプーラを英語風に改名し、シンガポールと呼ぶようになりました。

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締結された自由貿易協定書

ちなみに世界最大の花のラフレシアを見つけたのもラッフルズと言われています。

 ラッフルズは通算10ヶ月ほどしかいませんでしたが、帰国する時に中華系の人から豪華なプレゼントをされたとされています。

その後はウィリアム・ファーカーという人物が駐在していました。

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ラッフルズがプレゼントされたもの

それからシンガポールの土地はマレー半島と共にイギリスの植民地となります。

フォートカニングの丘に白色人種が生活し、下に有色人種が住む図式がこの頃から既に出来上がりました。

白色人種が人種によって住む所を決めた名残りが、現在のチャイナタウンやリトルインディアなどに残されていると言われています。

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19世紀のシンガポール

労働者は劣悪な環境で働かされ心身共に疲弊し、アヘンに手を出していました。

アヘンも純度の高いものではなく、身体に悪影響を及ぼします。

そのような衛生の悪い当時のシンガポールにおいて、イギリスに留学経験のあるリムブンケンというプラナカンが、改善するべく衛生向上に尽力しました。 

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リムブンケン(右上)と当時の街。汚い川辺で生活し不衛生な環境でした。

また、英語で高等教育を受けた知識階級の華僑、インド系なども生まれました。

 

日本軍による占領

パールバーバーと同日、シンガポールでも日本軍の攻撃に遭いました。

海側から侵略してくるというイギリス軍の予想に反し、日本軍は自転車や小型軍用車で、マレー半島から南下して攻めて来ました。

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自転車でマレー半島の密林を移動したとされています。

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連合国のイギリス軍は敗れ、降伏宣言をしました。この時交渉したのが「マレーの虎」と呼ばれた山下中将です。

 

イギリス軍の降伏後、シンガポールは「昭南島」と言われ、日本の支配が始まります。

シンガポールは中華系が多かったため、中華系シンガポール人の反乱を恐れた日本軍は、15歳以上50歳以下の男性の中華系を収監し、反日分子と判断された人は虐殺されたとされます。

正確な犠牲者の数は不明ですが、日本の調査では5〜6千人とされています。

しかし、実際には2〜3万人が犠牲となったのではないかと言われています。

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当時の犠牲者の遺品

戦後の独立

日本敗戦後、イギリス軍が統治してくれると期待していたが、実際はそうではなかったと言います。物資は少なく、医療も受けられず暗い時代となりました。

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当時の状況を物語る絵画


アフリカ独立などの動きもあり、自分たちで独立を目指すようになります。

1961年リー・クアインユーがマライア連邦(マレーシア)と一緒に独立を目指しました。

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初代シンガポール首相となるリー・クアンユー


しかし、マレー人の多いマレーシアと、中華系の多いシンガポールでは政策が合わず、1965年、マレーシアから切り離される形での独立宣言となりました。

リー・クアンユーにとっては不本意な形の独立となったのです。

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戸惑いを滲ませながら独立宣言をするリー・クアンユー

独立後のリー・クアンユーの政策は凄まじいものでした。

自国の通貨を作り、18歳以上は徴兵制も制定。

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西部のジュロンに工業地区を作りました。

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ジュロンの工場で働く女性達の姿

また外国企業からの投資を呼び込み、現在のような発展を見せたのです。

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1960-70年代の一般家庭のキッチンを再現

戦後緑地は7%しか残っていなかったとされています。現在のような緑豊かなシンガポールはリー・クアンユーが尽力し人の手によって緑化されたものなのだそうです。

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昔のイギリスの政策によって民族ごとに居住エリアを分けられていましたが、現在シンガポール人のほとんどが暮らすHDB(日本の公団なような建物)では、人口に占める人種の割合に応じて、入居する割合が決まっているそうです。

 

日本占領時期死難人民記念碑

シンガポール国立博物館を出た後、MRTのCity Hall駅に程近い場所にある日本占領時期死難人民記念碑に向かいました。

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現在は改装中でした

戦時中に犠牲に遭われた人々を思い、手を合わせ黙祷しました。

 

 

シンガポール国立博物館で沢山の事を知ることができて本当に良かったです。

シンガポール訪れる方には是非行って欲しいと思いました。

平日の10:30から、日本人のボランティアの方による無料ガイドツアーがあります。

是非利用してみて下さい。